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湧出量増やし活気戻す 【読売新聞2015年4月25日】

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■「逃げるしかなかった」
酸性の強い「草津温泉」の湯で荒れた肌に効くとされ、「草津の治し湯」とも呼ばれる沢渡温泉(中之条町)。江戸時代から栄え、蘭学者の高野長英や歌人の若山牧水なども訪れた秘湯を、1945年4月16日、大火が襲った。
「火を消すことも諦めて、逃げるしかなかった」。沢渡温泉で最も歴史のある老舗旅館「まるほん旅館」の前主人・福田勲一さん(86)は振り返る。
福田さんは当時、旧制渋川中学(現・県立渋川高校)の4年生。同校の体育館で戦闘機の一部を作っていたが、16日は休みで、渋川の寮から、実家のまるほん旅館へ帰っていた。
 つかの間の休息を終え、寮に戻ろうとした時、火事を知らせる鐘が鳴り響いた。家の外に出て様子を見ると、「雪のように白い灰が舞い、火が山を駆け、沢渡温泉に広がっていった」。
 その時、沢渡温泉には東京都田端新町国民学校の児童200人以上が集団疎開していた。そのうち約70人がまるほん旅館に宿泊していた。
 「先生が必死世になって、旅館の2階の窓から外に、児童の布団を放り投げていた」と福田さんは記憶をたどる。数時間後、福田さんが高台に立って温泉街を見渡すと、火がくすぶり、街全体が真っ赤に染まっていた。

■小さな旅館から再起
この火事で約150ヘクタールを消失、114戸が全焼した。まるほん旅館を含め4軒あった旅館は全て燃えてしまった。火災の4か月後に終戦を迎えたが、物資が不足し、旅館を再建することはできなくなった。「木材がなくて、新築に規制がかかっていた」という。
旅館が復活したのは48年頃。父・浩一さんが友人の家を半分買い取り、客室5室の小さな旅館を建てた。火災の後、再開できたのはまるほん旅館と老舗旅館「龍鳴館」の2軒だけだった。

■ボーリング成功
 客足が戻ったのは59年。当時の中之条町観光協会会長の町田浩蔵さんを中心に、温泉の湧出量を増やすために行ったボーリングが成功してからだった。
 湧出量が3倍に増え、2軒だった旅館も一気に13軒になった。高度経済成長の追い風も重なり、温泉街に活気が戻った。「睡眠時間は2時間くらい。布団が足りなくて、よそから借りるほど忙しかった」という福田さん。「東京の金持ちのお客さんが漫才師を一緒に連れてきて、他の客も集めて楽しんでいた」と懐かしむ。

美肌の湯ですべすべ 【日本経済新聞 2014年3月29日】

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峠越しに草津温泉へと通ずる山あいに、昭和30年代の面影を残す温泉地がある。草津の酸性湯に浸かった肌をここでいやしたことから「草津の仕上げ湯」と称される沢渡温泉(中之条町)だ。江戸後期、西洋医学に通じた蘭学者高野長英が逗留したと伝わる。
 特急草津号の止まる中之条駅からバスに乗り25分。十数軒の宿や店が軒を寄せ合う温泉街に着く。昭和30年代に建てられた建物が多く「まだこんな温泉地が残っていたか」とうれしくなる。
 その昔、善光寺参詣客の指定宿だったという看板のかかる「まるほん旅館」の部屋に荷を置き、早速温泉へ。檜造りの湯小屋に木製の渡り廊下を渡っていく。すぐ隣の共同浴場から桶を置く音や笑い声が響いてくる。
 天井の高い湯小屋には湯船が2つ。石臼と木升をかたどった湯口から熱湯が注がれている。青緑色の利根石が敷かれた湯船に浸かるとちょうどよい湯加減。加水もしないかけ流しの源泉は香りが豊かで、無色透明の湯を口に含むとかすかに硫黄臭がする。体を洗うためではなく、ゆっくりと湯に浸かり心身を整える昔ながらの温泉で、疲れた体にジワッとしみてくる。湯上がりには肌がすべすべになり、いつまでも温かさがひかない。古くから伝わる「一浴玉の肌」というコピーはまさにその通りだ。館内には湯小屋のほかに、貸し切り湯や露天風呂もある。
 沢渡温泉には連泊・滞在する宿泊客も多いため、まるほん旅館では食事の量も選ぶことができる。週末を含め、ひとり旅も歓迎してくれる。近代的な建物はないが、まさに現代人に合った温泉だ。

■コンセント抜いたか!!【温泉人情物語・不良定年編】 【週間朝日】 2005年3月4日

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JR吾妻線の中之条駅から沢渡(さわたり)温泉行きのバスに乗って二十五分で、まるほん旅館(0279-66-2011)に着く。この地は江戸末期より昭和初期までが全盛期で、温泉街には小料理家が並び、座敷では義太夫が演じられた。
 肌を抱きしめてくる情の深い湯で、不良定年のおやじが行くにはうってつけの温泉宿である。湯にだらだらとつかっていればグレますね。昔はサトウ・ハチローが常連客だった。
 まるほん旅館のことを教えてくれたのはドイツ文学者の池内紀さんだった。「これぞ隠れた名湯です」と聞いてすっとんでいった。
 ぼくはひなびた山の湯ばかりを廻っている。
 玄関は商人宿の造りで温泉旅館らしくない。木造りの廊下をギシギシと渡ると大浴場があり、床も壁も天井もすべてヒノキ材である。
 浴槽の底は青石が敷かれているので、透明の湯がブルーに見え、高窓から光りが差し込んで、湯面に光りの縞をつくっていた。木のぬくもりと天の光が渾然一体となった夢の温泉だ。
主人の福田勲一おやじは悠々たる道楽者で、常連客が多く、一度この湯の味を知った客は年に二、三回訪れる。個人客を大切にして団体客はとらない。跡つぎ の息子と、てきぱきと宿をきりもりする様子をぼくは『温泉旅行記』(ちくま文庫)に書いた。この本はロングセラーである。
ところが、一九九六年に思わぬ事件がおこった。ひとり息子が、無謀運転のトラックにはねられて、亡くなってしまったのだ。
 それからも、まるほん旅館はぼくの不良仲間の定宿となったが、福田おやじに「だれ
かいい後継者がいないかねぇ」と相談をうけて、このコラムでも募集した事がある。
 四百年の歴史がある老舗で、年代物の木造三階建ての十八室だ。大きな風呂の掃除だけでも、かなりの体力がいる。  
宿のすぐうしろに源泉があり、源泉使用権は、相続人のみが承継する、という規約がある。となると、後継者は福田おやじと養子縁組をしなければならない。
 この条件をクリア人が見つからず、福田おやじは廃業を考えた。とそのとき、快男児と出会った。地元の群馬銀行で支店長代理をしていた三十八歳のサトシ君であった。
 職場結婚をしたサトシ君の奥様は、銀行の窓口業務が長いから、接客はお手のものだ。母親は学校給食の調理をしていたため料理が得意だ。サトシ君は、融資や経理に詳しい。
 かくして、一年前に群馬銀行を退職して、福田おやじと養子縁組の手つづきをとった。それから一年間みっちりと修行をして、ようやく旅館のイロハをおぼえたところである。
 さっそく激励にいくことにしたが、大雪が降って列車が運休し、宿にはほかに一組しか泊まっていない。
 福田おやじは七十六歳になった。いい後継者がきてくれたので、機嫌がいい。雪が降りしきる宿で、雪見風呂につかった。旅館の息子になったのだから、サトボオという呼び名にした。
 しんしんと雪降る宿で、福田おやじとサトボオと酒を飲むと、深夜0時になってしまった。サトボオは純朴なまじめ人間で、まだ発展途上の不良予備軍である。福田おやじは「これでまるほん旅館は安泰です」と感慨深げだった。
 翌日、ぼくは軽井沢小瀬(こせ)温泉のパークホテル(0267-42-3611)に行くことになっていた。パークホテルは堀辰雄の小説『風立ちぬ』の世界がムクのまま残されている。
 軽井沢にはいくつかの温泉があるが、いずれも大ホテルで情緒に欠ける。ムカシの軽井沢の抒情を残しつつ、キャピキャピのガキ連中が来ないプティホテルだ。
 なめらかな湯質で、湯上がりは肌がツルツルになる。ホテルオークラの会長は、パークホテルの愛好者で、東京のホテルオークラの赤いカーペットの余りをくれた。
 温泉でありながら正統のホテル形式で、値が安い。パークホテルにも七年前に息子の岩瀬ヒロキ君(36)が帰って来たから、七十歳になる岩瀬おやじさんも、ほっとしている。
 軽井沢に別荘があったT・K首相(田中角栄氏)は、小瀬温泉の泉質に惚れこんで、小型タンクローリーで、湯を運んだ。このホテルは軽井沢在住の作家、画家、音楽家に愛用され、じつは地元の客が多い。
 沢渡温泉から草津までサトボオが「ぼくもパークホテルへ行ってみたいなぁ」といいだした。「この大雪で、客がみんなキャンセルしてしまって、本日は休みにしました」。
 草津から小瀬温泉まではバスで行くつもりにしていた。「ぼくも行くから送って行きますよ」「きみもそのうち不良になるぞ」。 まるほん旅館に泊まってから、パークホテルへ行く客が多いという。『温泉旅行記』を読んで、同じコースをたどるらしい。
 「だから、パークホテルって、どんなホテルか行ってみたかったんです。風呂だけ入って今日じゅうに帰ります」といって、サトボオは奥様にケイタイ電話をかけたのだった。
 パークホテルも、二十年ぶりの大雪のため、宿泊客はほかに一人だった。
 その客も『温泉旅行記』を読んで、パークホテルに来た客だった。ぼくの本は優雅なる温泉流れ者の読者が多い。
 サトボオは、パークホテルのヒロキ君と意気投合して、一泊することにあいなった。ヒロキ君がいった。「うちのホテルに泊まって、つぎにまるほん旅館へ行くってお客さんが多いんです。ぼくも泊まりにいきます」
 かくして、まるほん旅館とパークホテルは群馬県と長野県をつなぐ友情連合となった。
 『不良定年』は、本誌青木編集長が「編集部発」でとりあげてくれたおかげで、増刷となり、いまは19刷だ。
 これも、まるほんとパークホテルの温泉効果といえよう。
(エッセー・嵐山光三郎 イラスト・渡辺和博)

■リセット【私の選択】 【読売新聞】 2005年1月13日

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帳場の奥で、紺色の作務衣(さむえ)姿の主人が予約の電話を受けている。
 「食事はどうなさいますか。おかずの品数が多い順に、A、B、C三つのコースをご用意しております」
 築四十年、木造3階建てのひなびた旅館に、はきはきとした声が響く。
 群馬県の北西部に位置する中之条に、沢渡(さわたり)温泉という小さな温泉街がある。標高六百メートルの山あいを縫う幅五メートルほどの道沿いに十二軒の旅館が点在している。
 その一つ、まるほん旅館。主人の福田智(さとし)(38)は十一ヶ月前まで、田中という姓で、群馬銀行中之条支店の支店長代理を務めていた。職場結婚し た妻との間に、小学生の子供が二人いる。昨年初め、銀行員の家族はそろって姓を変え、旅館経営者の家族となって、ここに移り住んだ。
江戸時代に、沼田藩主の母が宿泊したという記録が残る、沢渡温泉随一の老舗旅館。田中智がその存在を強く意識するようになったのは、二〇〇三年五月、当 時の経営者の福田勲一(くんいち)(76)が後継者を探しているという話を耳にした時からだ。勲一は一九九六年に一人息子を不慮の事故で亡くしていた。
 融資の取次ぎから企業買収(M&A)の仲介まで、支店長代理の仕事は幅広い。決算書を調べると、バブル時代に目立った投資をしていない分、財務内容は良かった。「M&Aには格好の案件だ」。支店の得意先に買収を打診して回った。
三社から色よい返事を得た。第三者に勧めている以上、自分でも風呂に入っておこう。そう考え、仕事帰りに旅館に立ち寄った。
 ひのきの壁に囲まれた浴場に入ると、客の老夫婦が湯につかっていた。自分もつかり、湯気でぼやけた老夫婦の姿を何とはなしに見ているうちに、この湯がすっかり気に入った。そして、こう思った。「最後まで銀行員でいいのかな」

「地元で一番安定している企業だから」と群馬銀行に就職したのは一九九一年。バブル経済の末期だった。当時と比べ、顧客の中小企業経営者と銀行との関係 は明らかに変質した。「困った時に何とかしてくれるのが銀行だろう」。親しくなった社長に泣きつかれ、「仕事は仕事」と自分に言い聞かせた経験も一度や二 度ではない。
 「一国一城の主もいいな」。ぼんやりと、そんな思いが過ぎって消えた。
 買収の仲介に動き始めて五ヶ月後の十月。経営権譲渡の意向を改めて確認しようと勲一を訪ねた智は、意外な言葉を聞かされた。「経営を引き継いでくれる人には、私と養子縁組をししてもらわないといけない」
 沢渡温泉の経営者でつくる「管理組合」の規約に、次のような一文があることを勲一は明かした。
 <源泉を利用する権限は相続人が承継する>
 限りある湯量を確保するため、新規参入を制限しようと設けたルールだった。
 三社に勲一の言葉を告げると一斉に腰が引けた。後日、それを伝えた智に勲一は寂しそうにつぶやいた。「それなら廃業するか」
 この時だ。智は自分でも思いがけない言葉を口にした。「私がやりましょうか」。今でも不思議に思うほど迷いは無かった。
 「旅館のおかみになってみないか」。帰宅後、妻の節子(43)にそれとなく持ちかけてみたが、「なに言ってるのよ」と相手にされなかった。
 やがて妻は夫が本気なのだと悟る。十一月。ついに爆発した。「私は銀行員と結婚したの」「旅館の経営なんて素人に出来るわけがないでしょ」。今度は夫が声を荒げた。「そう思うなら実家へ帰れ」
 何を言っても、この人に気持ちは変えられない。節子は観念した。
 夫婦と二人の子供は、支店から二十五キロほど離れた智の実家で母の弘子(62)と同居していた。
 妻は窓口業務が長かっただけに接客はお手のものだし、学校給食に調理の仕事をしていた妻には厨房を任せられる―智はそんな計算もしていた。
 土日が来る度に弘子を含む一家五人で旅館に泊まり込み、仕事のイロハを学ぶようになった。智は翌二〇〇四年一月三十一日付で群馬銀行を退職。勲一との養子縁組の手続きを取った。

福田智の一日は朝の風呂掃除から始まる。部屋は十八室。節子はこまめに回って客から料理の好みを聞き、厨房の弘子に伝える。週末には、勲一も高崎市内のアパートから応援に駆けつける。
 「いいお湯だった」「また来るよ」。客からそう言ってもらえることが、智には何よりうれしい。収入は三分の一に減ったが、バブル崩壊後の銀行ではなかなか味わえなかった喜びを日々かみしめている。
 相次ぐ銀行の経営破たんに「子供は公務員にしようね」と言っていた節子が、今は「旅館を継いでくれるといいね」と口にする。「ミイラ取りがミイラ、です」と智は笑う。
 年末年始は書き入れ時とあって、勲一も毎日、手伝いに顔を出す。「これであと百年は続くな」。一代前の主人は満足そうに語った。(敬称略 小島剛)
※読売新聞社 許諾

■肌にやさしい仕上げ湯 【日本経済新聞】 2004年1月17日

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温泉教授 松田 忠徳
「・・・・・・長かりしけふの山路/楽しかりしけふの山路/残りたる紅葉は照りて/餌に餓うる鷹もぞ啼(な)きし/上野(かみつけ)の草津の湯より/沢渡の湯に越 ゆる路/名も寂し暮坂峠」(「枯野の旅」)大正十一年(1922年)十月二十日、若山牧水は草津から沢渡温泉へ向かう途中、暮坂峠の風景に感動して、この珠玉の詩を記した。
 「此(こ)の温泉は草津の合せ湯として、草津の帰途、六里ヶ原を馬背によって運ばれ、暮坂峠を越えて此處(ここ)に来り、数日間滞在して湯爛(ゆただれ)を治した」(『日本温泉案内』、昭和五年)
 草津の湯は名だたる酸性泉であったから、沢渡は荒れた肌をやわらげる“仕上げの湯(直し湯)”として古くから知られていた。事実、江戸中期の「上州沢渡温泉絵図」を見ると、湯小屋「ナヲシ湯」が描かれている。
 牧水が『みなかみ紀行』でここに立ち寄ったころ、沢渡の名はまだ知られていたが、JR吾妻線の前身、草津鉄道が開通してからは急速にその存在感は薄れていった。
 だが、それが幸いした。バブルの洗礼とは無縁の、歓楽的なものがいっさい無い正当派の温泉街が旧街道沿いにつつましやかに残されているからだ。みやげ屋 や民家に混じって質素な温泉宿が十二、三軒。美容院や理髪店があるのは、ここが現在でも湯治場であることを物語っている。
 中之条の市街地から北西へ約10㎞。秋葉、有笠の水巒(すいらん)の間を蛇野川が緩流する別天地に湧(わ)く沢渡は、平成人の心身を再生する湯治場として申し分のない環境にある。
 江戸時代に五軒の共同場が知られていたが、うれしいことに現在も一軒「沢渡温泉共同浴場」が残っている。温度差をつけた二つの湯船、湯口には飲泉のためのコップが置かれていた。
 「保養のお客さんがほとんどです。中高年の夫婦連れがメーンでしたが、最近は温泉の違いの分かる若い人が増えています」。こう語るのは元禄年間創業という老舗「まるほん旅館」のご主人、福田勲一さん。
 「込んだ時は『いい風呂だった』と言われることはないので、客を取り過ぎないようにしています。ですから、土、日でも一人客大歓迎です」。
 

風呂がまたいい。草津の仕上げ湯といわれただけあって、やわらかな肌感が身上。その湯を十分に生かすために浴舎は総檜(ひのき)造りなのである。家族風 呂もあるが、この風呂は混浴。いたわり合うように背を流し合う老夫婦の姿に、失われてしまった日本の混浴の心を見たような気がした。宿の、風呂の雰囲気が そうさせるのか。(旅行作家、札幌国際大教授)